カフェでの会話

意味があるようで、ないような。なんとなく忘れられない、カフェで交わした言葉

戻らない夢(Lamp 「彼女の時計」レビュー)

満を持して4年ぶりに発表されたLampの新譜「彼女の時計」。僕はこのアルバムをとても美しい映画のエンドロールのようだと思いました。

 

これまでの彼らの音楽はある瞬間やシーンを切り取るような歌詞が多く、目の前に広がる風景はアルバムごとに違っていて、そのどれもが美しかったです。ただ、今回のアルバムはこれまでとは少し違いました。ここに収められた8曲に通底するテーマは「時の流れ」です。

 

あの時、確かに存在したかけがえのない瞬間は、心に残ってはいるが、もう決して戻ることはない。それを思い出す時の痛みと甘美さが、このアルバムには詰まっています。7曲目の「誰も知らない」では香保里さんがこう歌います。

 

あの頃の二人がもう一つの時間に暮らしている気がするの 

 

もう戻らない時間を想う男女。「僕の時計」と「彼女の時計」が刻む時間はもう違っていて、交わることがありません。今この瞬間に彼女の姿を浮かべる男性に対して、女性は平行して走るもう一つの時間にあの頃の思いを託します。香保里さんのこうした詞の感覚は流石だなと感じました。

 

とにかくこのアルバムはLampにとって一つの節目のようなものであると思います。

 


Lamp 「1998」M.V.

 

このMVは彼らが作るものとしては異例で、自分たちが演奏する姿が収められています。現在地点に立って過去を振り返る目線が彼らの中に生じているではないでしょうか。もちろん彼らが歩みを止めることはないでしょう。彼らの音楽は常に変化し続けている ます。次はどんなものを聴かせてくれるのでしょうか。その瞬間が訪れるまで僕は何度でも彼らの歩み、作ってきた音楽に耳を傾けていようと思います。

 

 

 

彼女の時計

彼女の時計

 

 また、今回のアルバムはフィッツジェラルドの小説に似ているなと感じました。戻らない時を想う心の痛みと、その美しさ。大名盤です。

 

村上春樹翻訳ライブラリー - 冬の夢

村上春樹翻訳ライブラリー - 冬の夢

 

 

視線の向かう先(「万引き家族」考察)

遅ればせながら、「万引き家族」を見てきました。

 

 

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出典元:

是枝裕和監督 最新作『万引き家族』公式サイト

 

 

 

僕は、胸を張って映画好きとは言えないような人間ですが、そんな僕にも好きな映画というものは確かにあって、それは「語らない映画」なのです。この映画もまさに余計なことは語らず、「何を受け取る?」と僕らに委ねるような映画だったと、満足感を噛み締めながら劇場を出たのですが、少し経ってふと、「そんなに単純な話じゃないかもしれない。この映画は、「語らない映画」ではなく、「語れない映画」だったのでは・・・?」という思いが湧いてきました。

 

スクリーンの中の人物たちは、自らの思いを言葉にして伝えることができなかった。では、スクリーンの外にいる僕たちは、何を見て、何を聞かなければならなかったのか?「視線」をキーワードに、僕の考えを記したいと思います。

 

 (ネタバレを含みます)

 

 

 

 

 

 

 

 万引き、交わらない視線

 

 そもそも、万引きを成功させるために絶対に必要な条件とはなんでしょうか。それは、「見られないこと」です。店員に自分の行為を見られてはいけない。目立たないために、共犯である父親(子)を、見てはいけない。彼らはスーパーという社会的空間の中で、いない者にならなければならなかった。まずここが、この映画の肝だと言えます。万引き家族」は、社会にとっていない者、見えない者でないと成り立たないのです。冒頭の万引きシーンは、そのことを鮮やかに映し出します。巧みに万引きを終え、親子はスクリーンから姿を消す。残されているのはいっぱいになったカゴだけです。これから描かれるのは、見えない者達の物語なのです。

 

そしてもう一つ。祥太(城絵吏)が万引きに疑問を持ち始めてから、治(リリー・フランキー)と彼が目を合わせるシーンが極端に減ることにも注目がしたいです。祥太がわざと見つかるように万引きをしたのは、妹を守るためということもあるでしょうが、自分を見てくれない父親に代わって、誰かに自分を見てもらいたかったからではないでしょうか。そして彼の思い通り、社会の目が彼らに(最悪の形で)向いた後、翔太は再び父親に会いに行きます。そこでも治は最後まで彼と視線を合わせることができませんでした。だからこそ、祥太は治の元を去らなければならなかったのです。一方の治の思いはただ一つ、「父親になりたかった」です。しかし彼は、祥太を見つめながらも目を逸らし続けてきたことに、向かい合うことができませんでした。口にしたかった言葉は交わらない視線とともに、ついに発せられることはなかったのです。

 

 傷に注がれる視線

 

男二人をつないでいたのは万引きでしたが、女性陣をつないでいたのは「傷」です。傷だらけのりん(佐々木みゆ)の姿を見た女性陣は、それぞれ祖母、母、姉という「家族の立場」を取ろうと努めます。つまり、それぞれ心に「傷」を抱えていた彼女たちは、目に見える傷を持つりんの姿を見て初めて、「家族」という形を取ろうとしたと僕は考えます。そして彼女たちも「家族」になりたいと願うために、父子と同様に目を逸らしてきたことに向き合う必要が生まれるのです。

 

世間は露呈した犯罪(今回は万引き、死体遺棄)を衆目に晒し、一斉に叩きますが、「知っていたけど目を逸らしていたこと」に対しては何も語りません。すなわち、低賃金での労働、女子高生の見学ビジネス、高齢者の孤独死……です。それはもちろん批判されるべきことであり、実際にその点がこの映画のメインテーマになっているのですが、ある意味では、家族内でも社会と同じことが起こっていたと言えます。それぞれが心の内に「傷」を抱えていることは知っている。しかし、それには目を逸らし続けていた。目に見えるりんの傷だけに視線を注ぐことは「家族」としてあってはならなかった。だから「家族」は崩壊します。血の繋がらない家族の真の絆」という見栄えのいいテーマのさらに奥に、語ることができなかった「家族観」があるように、僕には思えてなりません。

 

 ラストシーン、祥太とりんの視線

 

「家族」が崩壊した後の二人の子供の視線がラストシーンであり、この映画を決定づけます。簡単に言えば、後ろを振り返る祥太の視線は過去に、前を向くりんの視線は未来に向けられているのですが、その先に何があるかが重要です。

 

まず祥太の視線の先には、父になれなかった治の姿があります。そして、ついに発せられることがなかった「父ちゃん」という言葉。祥太は後ろを振り返ることで自分のしてきたことと、取った選択に向き合います。それは同時に、何が起こるかわからない自らの未来への覚悟とも見ることができます。これはあとで記述しますが、そこにはやまとやの店主(柄本明)の存在が大きく関わっていると思います。

 

一方のりんですが、最初にいた扉の外に戻り、立ち上がって前の何かを見つめています。その先に何があるかがこの映画の最も重要なポイントです。映画全編を通してのりんの行動理由はなんだったのでしょうか。治についていく、万引きを手伝う、兄を玄関で待つ、信代(安藤サクラ)の傷を触る、元の家に戻る、母の傷を触る……そう、彼女は目の前にいる人に喜んでもらいたい一心で行動をしてきました。言い換えるなら、家族という枠を超えてひたすらに利他的な行動をとったのが、りんなのです。そのりんと目があった治は、手をさしのべました。父親としてでも、万引き者としてでもなく。ラストシーンでりんの前にいなければならないのは他でもない僕たちなのです。りんを見つめ、自らの意思で行動をしなければならない。(手を差し伸べろ、というわけではなく目をそらさず、自分で選べということ)逆にいうならば、りんの前に僕たちが立たなければ、彼女の前にあるのは絶望しかない、と無言のうちに、是枝監督は僕たちに伝えたかったのではないでしょうか。

 

目を見つめ、選択すること

 

最後に、やまとやの店主が果たした役割について書いて終わろうと思います。これはいたって単純です。彼は、祥太の目を見て、自らの意思で選択をしました。そしてこれこそが是枝監督が僕たちに求めたことなのです。万引きという行為を肯定するわけではない。しかし、周囲の論調に流され思考を止めてもいけない。ただ、目の前の問題から目を逸らさず、行動をしなければならない。それができる社会が是枝監督の求めたものだと僕は受け取ります。

(全くの余談ですが、柄本明が出てきた瞬間、見ている人全員が「終わった・・・。」と思ったんじゃないでしょうか(笑)そういうミスリードも含めてキャスティングがピタッとはまっていたのもこの映画の素晴らしいところでした。)

 

 

ということで、だいぶ長くなりましたが視線をめぐる「万引き家族」の考察は以上です。とにかく素晴らしい映画だと僕は感じましたし、他にもまだまだたくさん受け取れるものがあるんじゃないかと思っています。「目の前のものを見つめることを、怠ってはいけない。」これは、全く「当たり前のこと」なんかじゃありません。社会の最小単位である「家族」にまずは全員が目を向けなければならないですね。

 

 

万引き家族【映画小説化作品】

万引き家族【映画小説化作品】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カフェでの会話(このブログについて)

f:id:Shino_CT:20180704014554j:plainカフェで交わされる会話はとても個人的なもので、テーブルを挟んだ当人たちにとってしか意味をなしません。彼らは周りのことなど気にせず、ただ話したいことを話したいままに話すためにカフェに入るのです。カフェのためにカフェに行くならば、その人は一人で行くべきです。人は、話している間はコーヒーを飲むことも、ケーキを食べることも、音楽を聴くこともできません。カフェで会話をする人たちはその瞬間、とても自分勝手な存在になっていると言えるのです。

 

ただ、だからこそそのテーブルには別の時間が生まれます。外と隔絶されたカフェの中でさらに切り離された、彼らのための時間。彼らはそれを求めているのです。良い映画を一緒に見た後や、借りていた本を返す時、「わたし」は「あなた」と話したいことがある。だから、カフェに入ります。そこで流れた時間は、場所ニューロンも手伝って、なんとなく忘れられないものになるでしょう。

 

初めまして。僕は慶と言います。しがない大学生をやっています。このブログは、カフェに誘える友人が少ない僕が、話したいことを話すために始めたブログです。もし見つけてしまったら、コーヒーでも飲みながら斜めに(相槌を打ちながら話を聞き流すように)読んでもらえれば幸いです。